開院記念日を前にして
院長コラム 第7回 2005.1.20
新年おめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
昨年は、災いの年と表現されましたが、その年を締め括るかのような大地震がインド洋で発生しました。 ご存知のとおりその後に起きた大津波によって15万人を超える犠牲者が出てしまいました。 テレビの映像でつくづく津波の恐ろしさを思い知らされました。被災された方々が一日でも早くもとの生活に戻れますよう心よりお見舞い申し上げます。
さて、今回の津波によって一時全島が水没してしまったと報道されたアンダマン島のことを、皆さんはこれまでご存知でしたでしょうか。 今は、よく耳にする名前となりましたが、多くの方は今回初めて耳にされたのではないでしょうか。 しかし、私には子供のときより耳慣れた名前で、この島がどこにあってどんな歴史を持った島なのかまで、行った事も無いのによく知っていました。 それは、父から聞いていたからなのです。
父は、第二次世界大戦中海軍歯科医大尉としてこの島に駐屯しており、この島で終戦を迎えました。 二年半にも及ぶこの島での生活は、当時二十代だった父にとって強烈なものだったに違いありません。
現在の東京医科歯科大学の前身である、東京高等歯科医学校を昭和17年秋に半年繰り上げて卒業した父は、 海軍歯科医官制度が発足して第一回の試験に合格した後、今の北朝鮮にある元山で訓練を受け海軍少尉となり、 佐世保から一人空路でこの島に赴任しました。着任当初この島は、インド侵攻の拠点として、 陸海軍部隊の精鋭が駐屯する地で物資も豊富にあったようです。 そしてまた、海軍第12特別根拠地隊医務隊という名の部隊で、海軍で初めての歯科医科士官としての父の役割は、大きかったようです。
たとえば、歯を削るドリルが足でベルトを回転させる旧式のものしかなかったのを父の考案で電動式に作り変えた事など、良く聞かされたエピソードのひとつです。 しかし戦局の悪化で終戦間近には、イギリスの艦船に包囲され日々敵の砲撃に曝され、南海の孤島として内地には忘れ去られた存在だったようです。 そんな状況で終戦を迎え、イギリスの捕虜となってかなり苛酷な日々を送り、およそ一年後の6月に復員船で日本に帰ってきました。
戦争に負けはしたが、歯科医療の分野では絶対に負けないとの心意気がそれからの父の原動力でありました。 ホームページの本文の中にもお書きしましたが、その後は世界一を目指して日々歯科医療に取り組み、私が引き継ぎ現在に至っています。
片山歯科医院は、私の父と母が、目黒区洗足の地で開設してから数えると既に五十年以上も経ちますが、開院記念日になっている銀座移転開院から数えますと、 この1月29日で三十九年目を迎える事となります。これも偏に皆様方のご理解とご支援の賜物と感謝申し上げます。 これからも日々研鑚をして常に新しい技術を選択し、新しい材料を吟味して皆様にこれまで以上の医療をご提供するよう努めてまいります。 どうぞ今年もよろしくお願い致します。